読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

眠すぎる! 特発性過眠症 眠すぎる!

2017年からは過眠症は関係なく旦那の行動観察と自分の気分を書きます。特発性過眠症の方は、記事の内容に関係なくコメント下さい。お友だちになりましょう。

ビリー・ジーンいいですね。

 今、これを読んでいる。

マイケル・ジャクソンですら

失恋するのか…

と思いながら。当たり前か。

 

そして、

ビリー・ジーンの考察のところにきて

休み休み、

いろんな思い出と一緒に読んでいる。

 

 

マイケル・ジャクソンの思想

マイケル・ジャクソンの思想

 

 

 

( 以下、長いです。でもしょうがないよね。

     だってマイケル絡みの話だもん。)

 

私が読書好きからスタートして

市立図書館でマイケル・ジャクソンのCDを

借りて聴いていたことは

以前の記事に書いたのですが、

 

そこで借りられた

アルバムには

ビリー・ジーンがなかったんです。

 

だから、

私はしばらくビリー・ジーンを

聴いたことがなかった。

 

 

 

大学生のときだった

(…はず。大学生のときしか

ラジオを聴いていないから)

 

運転中に

むっちゃくちゃカッコいい音楽が流れてきて

なんだこれは!!!

 

となっていたら

短い曲で、あっという間に終わり。

 

 

マイケル・ジャクソンでした。

 

 

ビリー・ジーンという

知らない単語が題名だと知り、

 

ずっと

もう一度、聴きたい!

と思っていた。

 

 いつだったか覚えていないが

店で

アルバムのエッセンシャルが

積まれているのを発見し、

その中に

ビリー・ジーンがあるのを確かめると

興奮してすぐに買った。

(当時の私のパソコン能力では

amazonに注文することはできなかった。)

 

 

すぐに下手なりに練習して

歌えるようになった。

 

 

 

 

 ただ、

なんやねんこの歌詞は。とは思っていた。

 

 

 

私が

自身のマイケル・ジャクソン好きを

隠さないですむ

数少ない心の友の1人であるTちゃんも

助手席で

「カッコいいね。どういう歌詞なの?」

と聞いてきた。

 

「ビリー・ジーンって女が妊娠して認知しろって言ってるけど絶対に俺の子どもじゃないよっていう歌だよ。」

「何それ…。」

 

「2番で裁判にもなってるよ。」

「変なの。」

 

 

 

 

ビリー・ジーンも、

ダーティーダイアナも、

ほんと、悪い女だ。

 

シャ乱Qのズルい女とか、

サザンの曲に出てくるエロい女みたいに

 

でも好きになっちゃうんだよね、とか

でも騙されるのも気持ちいいんだよね、とか

ではないんですよね。

 

 

マイケル・ジャクソン

あ、き、ら、か、に

 

 

女性の、

男性から搾取する行為を

非難している。

(ダーティーダイアナに漂う

悲愴感といったら…)

 

 

 

自分が女性か男性かではなくて

愛があるかどうかが重要だ。

 

人は人を欺いてはならない。

性別は関係ない。

 

 

 

ビリー・ジーンと裁判で対決する僕は、

負けたらビリー・ジーンと結婚するか

養育費を払うか、

卑怯者とか生命を冒涜したとか

いろいろな修飾語を授けられる。

授けるのは、聴衆だ。

 

 

 

 

この歌のラディカルなところは、

裁判の聴衆まで登場するところだ。

妊娠した女と妊娠させた男だけで

物語が終わらない。

 

 

 

愛があるかどうかの反省を、

今、恋をしている人だけでなく

 

その事件、というか

その3人…

ビリーと、僕と、誰かの息子 

… を見守る人にも課している。

野次馬に問いかけているとも言える。

 

 

 ビリー・ジーンを聴くたびに

自分がタガメ女かどうかを

省みることはしていないが

 

誰かが悲しい気持ちになる妊娠があったことを知ると、1人のときにビリー・ジーンを歌ってしまうことがある。ビリーの味方になった聴衆と一緒ではいけない。

 

 

望まない妊娠という言い回しは

嫌い。

「誰が」望まないというのか?

 

母親???

 

 

例えば

性的虐待や暴力をきっかけとして

小学生から中学生、高校生をはじめ、

大人であっても育てることができない事情が

ある人が、

 

「産みたい」と言い出せるような社会が

今、実現しているとでもいうのか?

実現していないと私は考えていて、

もっと言えば

実現すべきでないという考えすら

あると思っていて、

 

それは紛れもなく

社会が選んでいることなのに

つまり、

そういった命の誕生を

「社会が」歓迎していないということなのに

(もしくは、楽観的に言えば、歓迎の気持ちに行動が伴っていないのに)

 

まるで母親1人が「望まない」かのような

錯覚を助ける作用があり、

したがって

望まない妊娠という言葉が

不愉快。

 

 

 

そして、

中絶した女の子が1人で泣いている。

なぜ、1人で泣かないといけないのか。

産みたい気持ちがあってもなくてもそれを表出する機会も場所も与えられないまま、命を終わらせる決断の責任だけ課されて。

 

私だって今まで それと知らずに

彼女らの傷ついた心に

何度塩を塗りつけただろう。

 

 

 

 

さらに深刻なことに

中絶薬の、時期を遅れた服用による死亡。

出産したときに死亡。

 

産まれた赤ちゃんが

遺棄されてしまう。

(出産した直後の身体で遺棄することが

 どれだけ大変か想像がつかない)

 

赤ちゃんはもちろんかわいそうだ。

でも私は

お母さんである少女や、

大人であっても

自由のきかない女性が置かれた環境が

とても心配だ。

 

 

悲しい。

 

 

悲しくなると

その悲しさを紛らわせるために

誰かを悪者にして安心したくなる。

 

 

「むごい!赤ちゃんにそんなことするなんて」

「消えた父親が、無責任だ」

「相談できる人は周りにいなかったのか」

「避妊すべき(もしくはセックスするな)」

 

いろんな意見に触れて、

思わずどれかに同調したくなる。

同調してはならない!

攻撃の中に愛情はない。

 

 

 

こういう赤ちゃんの遺棄事件を知るとき

私の中で起こることは

自然ともう決まっていて。

 

まず、

中絶したことで

傷ついて泣いていた女の子たちを思い出す。

次に、

同じ部屋にいながら

何もできず立っていた自分。

 

次に、

中絶の話を私としてくれた初めての人。

 私の中のありったけの真剣さで、

その人だけのことを思って

想いをぶつけた瞬間のこと。

今のところ人生で一番瞬発力を使った…

1年たち、

その人は

赤ちゃんを抱いて

私に会いに来てくれた。

彼女がいたから、

今の私もある。 

(〇〇さんがいたから今の私があるっていう〇〇さんが、私にはすごいいっぱいいる)

 

 

 

自分を大切にして。

自分で自分を認めて。

自分を愛して。

 

 

人には簡単に言えるけど

先生は自分じゃ、ちっともできやしない。

 

 

 

そこのとこ 知ってか知らずか、

 

自分を認めて立ち直る方法を

私の目の前でやって見せてくれたのは

いつだって、生徒だった。

私は最近やっと彼女らの真似を始めて、

生徒でもあり先輩でもある

彼女らを追いかけている。

 

 

ビリー・ジーンは

しょうもない歌詞だけど。

 

年に1回くらいの頻度でランダムに訪れる

性と生について問われるなんらかの機会に

 

 

悲しい

逃げたい

はぐらかしたい

それらしい理屈こいて済ませたい

分かったようなこと言ってみたい

よくある女性の権利論に持ち込みたい

 

…をカッコいいサウンドで流しさって

重たくなった気分を

ニュートラルに戻してくれる。

 

 

私の恋愛は、愛情を伴っているだろうか。

あの日の涙と同じ涙に次会う その日までに、

私はどこまで成長できるだろう。

今日の自分は、自分を大切にするために

何をしただろうか。

 

 

どんな事件でも、問題でも、

いつでも

振り返らなければならないのは

自分自身であって。

 

自分自身のことを振り返ることから

逃げないでいると、

そこから踏み出した一歩ずつのどれかに

支えたい人が踏み出す一歩がシンクロして

 

自分ではいつのどれが良かったのか

全然わからないけど

 

結果的に

大切な人に

役立たせてもらえるのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

今日の旦那

 

疲れてたようで元気なかった。